COLUMN
2024年11月
ラトルとの対話~ブルックナー「交響曲第9番」について
祈りとは何か? 神は存在するのかしないのか?
この問題を考える上で、決して避けて通ることのできない音楽の一つが、ブルックナーの絶筆となった「交響曲第9番」である。
おそらくクラシック音楽史上、もっとも暗く美しい、壮大な作品といってもいいだろう。
この曲をブルックナーは1896年の死の直前まで作曲していたが、ついに第4楽章を完成させることができなかった。そのおかげで、「白鳥の歌」ともいわれる第3楽章アダージョまでで終わる形として演奏されるのが通常だった。
それはそれで余韻の深い終わり方なのだが、近年は残された膨大なスケッチを再構成して補筆完成版とした第4楽章を付けて演奏されるケースも増えてきている。
サイモン・ラトルもかつてベルリン・フィルを指揮して2012年に第4楽章補筆完成版をレコーディングしていたが、この11月のバイエルン放送響との来日公演では、なぜか第3楽章までの演奏という形に戻している。
つい先日、ラトルの記者会見があったので、ちょうどいい機会にと出かけていき、この曲について以下のような質問をすることができた。
――なぜブルックナーはあのような怒りや地獄の要素のある交響曲第9番を、「愛する神に捧げる」としたのでしょうか。第4楽章について、かつてアーノンクールは「月から飛んできた石」のような音楽だと言いましたが、私たちも困惑してしまうような音楽であることは間違いありません。神の問題とあわせて、ラトルさんの見解をお教えください。
ラトル:
ブルックナーがこの交響曲を――人生で初めてのことになりますが――神に捧げたのは、それまで敬虔なキリスト教徒だった彼が、神に対する気持ちが本当に揺らいでしまった…そういった神に対して捧げた楽曲なのだと思います。
当時のブルックナーは精神的にかなり病んでいて(シューマンほどではありませんが)、大木の葉の数を数えたんですね。一つ数え間違うと、また最初から戻ってもう一度数えなおすといった強迫性障害のような状態に陥っていました。
それが音楽にも反映されています。特に和声は崩壊されてしまっています。「トリスタンとイゾルデ」から影響されて始まったようなところもあるのですが、トリスタンのハーモニーはもっと官能的なものであるのに比べて、ここで見られるハーモニーは本当に崩壊しています。
フィナーレではそれまでに書かれた楽曲がいろいろと引用されているのですが、ミゼレーレからの引用もそうですし、スコアを見ると十字架の形が至るところに見られるのです。何とか神への信心にすがりたいという気持ちはあったのですが、やはりそれが厳しかった。
フィナーレにおいてブルックナーは解決への可能性をほのめかせているのですが、なかなかそこまでは行かないのです。これは悩み苦しみ、病んだ人が書いた楽曲です。4番や8番とは全く違うところがある。
精神的に病んでいたということだけではなく、新しい世紀、20世紀を迎えようとしていた頃に書かれた楽曲であるということを忘れてはなりません。
クルターグがよく言っていたのは、ヴェーベルンはブルックナーに影響されたけれども、ブルックナーもヴェーベルンから影響を同じように受けたと。そのことを忘れてはならないと思います。
以上がラトルと私とのやりとりのすべてである。
特に興味深かったのは、ブルックナーは第9交響曲において、神への信仰の揺らぎを反映しているのだとする見解である。
これまでのイメージでは、ブルックナーはウィーンに出てきた田舎っぽく朴訥な男で、19世紀にいながら中世人のように純粋な信仰心を持っていた、というものだった。
その一方で、神の存在を疑い始めていた、信じられなくなることがあったとすれば、これは晩年のブルックナーについての考え方を大きく深みのあるものへと変えるものではないだろうか。
第2楽章の暴力的なまでに叩きつけるようなリズムの爆発は、神から人間に対する怒りの表れなのか、それとも人間の側からの神に対する怒りの抗議なのか?
それでもブルックナーは、「愛する」神に捧げる、と楽譜に書いた。
100%神を信じることはできなくとも、愛さざるを得ないということなのかもしれない。
私はそのほうが人間的だと思う。
晩秋の色を探してみた。暗い美しさは後期ロマン派の音楽にも通じる