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COLUMN

2025年1月

感覚の衰えをどうやって補うか

2週間くらい前から、右耳が難聴になってしまった。

手で蓋をしたような感覚がずっと続き、右耳の聞こえ方がやや遠くなった。

左耳は大丈夫なので日常生活に不自由はないが、人と会話するときにはやや聞こえづらいし、コンサートに行っても耳に届く音量が若干足りないと感じる。自分の話し声もいつの間にか少し大きくなっているかもしれない。

耳鼻科に行くと、副鼻腔炎および滲出性中耳炎と診断された。

先月からずっと続いていた咳と鼻水の影響である。

投薬による治癒を待っている状態だが、あまり長引くようなら鼓膜に穴を開けて、中にたまった液を外に排出するという。

 

どうせ治るだろうと楽観しているが、子どもの頃にしょっちゅう中耳炎をやっていたときの、あの感覚を思い出すことになった。

人の話し声が聞こえづらいと、だんだん聞き返すのが億劫になり、会話も面倒になって、次第に孤立感が強くなってくる。

自分の聴力が低下したという思いは、音楽を聴く能力の低下という恐ろしい考えにもつながってくる。

そういえば自分は赤緑色弱(最近では色覚多様性というらしい)なので、色を認識する能力が健全な人に比べて足りないという思い込みにも悩まされてきた。

色がわからないのだから、絵もわからないのではないか。そんなコンプレックスにも苛まれてきたのだ。

そんな自分が、音楽も絵画も大好きなのだから、皮肉なことである。

最近は、他の人とは違うように色を見、音を聞いているし、それも個性だと思うようにしているけれど。

 

たとえ健全な聴覚と視覚を持っていたとしても、人は誰しもが加齢によって少しずつその能力の鋭敏さを失っていく。耳も目も遠くなる。体力も落ちていく。老いは避けられない。

そうなったときに、いったい何が鑑賞能力を補ってくれるのか?

 

2007年にブラジルの音楽家エグベルト・ジスモンチが来日したときに、幸いインタヴューする機会に恵まれた。ギターとピアノを縦横無尽に操り、ジャズ、ラテン、ロック、ワールドミュージックなど、あらゆるジャンルを超越した、カリスマ的音楽家である。パリで伝説の名教師ナディア・ブーランジェに師事しているという意味では、コープランドやバーンスタインやピアソラの系譜にも連なる。ヴィラ=ロボスの作品からの引用も多くみられるなど、クラシックにも非常に近い人である。

そのときジスモンチは、子どもたちに音楽を教える際に大切にしているのは、「内面の聴覚」を育てることだ、と言っていた。

たとえば、友達の声を心の中で想像してみる。そしてその声に一番近い楽器を選ぶ。

そういう練習を何度も繰り返しているうちに、別々の楽器の音を同時に聴き分ける力がついてくるのだという。

そのときにジスモンチはこう言っていた。

「人は耳だけで音を聞いているわけではない。心の内で聴けるようになれば、どんな音楽だって好きになれるし、理解できるようになる」

 

考えてみれば、耳の聞こえなかったベートーヴェンが作曲することができたのは、まさに心で音を聞こうとする力が異常なまでに強かったからであり、それはジスモンチのいうところの「内面の聴覚」と同じものだったに違いない。

同様のことは視覚と絵を見る力との関係についてもいえるかもしれない。

視力がいいかどうかということよりも、心の眼で見るということ、色や形から画家の描いたメッセージや気持ちを感得する力を養うことの方が大切だろう。

いま自分には見えていない色や音があるということを意識しながら、見えないものを見ようとする、聞こえない音を聞こうとする貪欲さの方こそ、失ってはならない。

 

誰だって、視覚も聴覚も、やがて衰えていく。

そのとき、私たちが芸術を受けとる際に、よりどころとすべきものは何なのか。

最後の砦とすべきものがあるならば、それは――自分なりの体験のなかでつかむことのできた、色や形を、音のさまざまなあり方を、その感触と記憶を、愛するということ以外にないのかもしれない。

第10回写真.JPG

公園の木々と出会うと、手のひらを幹にあてて、樹液の流れを感じようとするのが好きだ。散歩中のベートーヴェンもそのようにして木と心で会話したのではないかと思っている。

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