COLUMN
2024年9月
演奏会で聴く「ボレロ」と、バレエで観る「ボレロ」
今年たまたま、二つの印象的なラヴェル「ボレロ」に接する機会があった。
一つは、広島県福山市のリーデンローズ(ふくやま芸術文化ホール)で1月21日に聴いた、沖澤のどか指揮京都市交響楽団のコンサート。
この演奏で何よりも驚いたのは、冒頭のスネアドラム(小太鼓)でごく小さな音で刻まれるあのリズム――それが、あまりにも微かな音で、懸命になって耳をそばだてないと聴こえないくらいだったことだ。
一体、いつ曲が始まったのか?奏者はどこにいるのか?それすらわからないくらい。
いつの間にか、ふと物陰から聴こえてくるような、あの小さな音は本当に奇妙だった。
それは、オーケストラの奏者だけでなく、千人以上の観客全員が一致協力して、ようやく作り出せる小さな、音楽かどうかもわからないくらいの“始まり”だった。
そんなにも小さくて不思議な音を味わえるのは、何と贅沢で豊かなことだろう。
喧騒に満ちた私たちの日常生活のなかでは、微細な音に耳を澄ませるような行為はほぼゼロに等しくなっている。
コンサートホールにいると耳が洗われると思うのはそういうときだ。
同じ主題が繰り返され、さまざまな楽器に受け渡され、音楽がどんどん力強くなっていく――そのプロセスは、ひとりの孤独な踊りに、少しずつ仲間が加わっていき、ついには大集団の祝祭の熱狂へと拡大していく「共同体の物語」のようであった。
もう一つの「ボレロ」は、9月1日にNHKホールで観た、東京バレエ団60周年祝祭ガラ「ダイヤモンド・セレブレーション」での、モーリス・ベジャール振付の舞踊だった。
オーケストラ・ピットから聴こえてくる、イーゴリ・ドロノフ指揮東京シティ・フィルの演奏は、最初のリズムを刻むスネアドラムの音からして随分と大きい。福山で聴いたときとは全く違う。
だがそれはダンサーたちにとっては、音楽と合わせて踊るためにも、しっかりと舞台の上で聴きとれる音量でなければならないのだから仕方がない。
静寂はむしろ舞台の上のほうにあった。
暗い闇の中で、一筋の光が射し、そこに魔術のように2本の腕が現れる。
ゆったりと上下に脈動しながら、それは誘惑するように不思議な動きを始める。
かつてのジョルジュ・ドンの妖しい官能性とは異なる、上野水香だけにしか表現できない、優美でしなやかな踊りが、中央で徐々に展開されていく。
まるで踊りの女神、あるいは祭礼の巫女のように。
それをぐるりと取り囲んでいる男たちの集団は、上野水香の踊りが熱を帯びるにつれ、少しずつ身を乗り出し、目をギラギラさせ、呼吸も荒くなっていく――そしてついには、一人また一人と、いても立ってもいられないという風に、踊りの輪に加わっていくのだ。
この、周りの男たちの凶暴な静寂が、私には大いに気に入った。
無言ではあっても、血は沸騰しそうに全身を駆け巡り、欲望の虜になって踊り狂いたくなる衝動。
それこそが「ボレロ」の根底にあるものだと、このバレエは教えてくれていた。
質の高い演奏、質の高い舞踊――そのどちらもが、音楽をより輝かせてくれる。
草むらの中に潜んでいる小さな虫にも、神の造形を感じ取ることができる