COLUMN
2025年3月
意思を持つ有機体としての音楽
ブルックナーは自らの交響曲第1番のことを「おてんば娘」と呼んだという。
ハ短調の厳しい響きを特徴とする、あの意欲的な交響曲に対して、なぜそのような呼び方をしたのだろうか?
おそらく――とても手のかかる、けれどもやんちゃで活発な、愛すべきわが娘――といったニュアンスが込められているからだろう。
生涯独身だったブルックナーにとって、彼が生み出した交響曲はみな魂の反映であり、我が子のように愛しく思う存在だった。だからこそ、生涯の間に、すでに完成された昔の交響曲を取り出しては、まるで衣装を着せかえてやるかのように、改訂の手を加え続けた。
とりわけ第1番は、第9番の作曲を中断してまでも、最晩年に2度目の改訂をおこなっている。気になって仕方がなかったのだろうし、それだけ可愛くて、面倒を見なければならなかったのだろう。
私は中学生の頃から熱狂的にブルックナーを聴き続けている一人だが、最近よく聴きたいと思う曲のひとつが、第1番である。
晩年の巨大交響曲はもちろん素晴らしいのだが、第1番だけにしかない、若くみずみずしいエネルギーと抒情もまた格別なのだ。
音楽作品をひとつの生命体としてみなし、そこに人格や意思があるかのように扱うという考え方は、作曲家の愛情という次元を超えて、聴き手の側にも大きな啓示を与えてくれる。
たとえば、コンサートに行く。
久しぶりにベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」を聴いたとする。
本物のオーケストラというものは、自宅のスピーカーやスマホのイヤホンで聞くのとは全く違い、眼前に大きく広がる交響的全体である。
それは文字通り生きた有機体として呼吸し、空中に漂う透明な鯨のようにゆっくりと息をしながら、聴衆の目の前に浮かんでいる。
会場で私たちは、その意思を持った有機体と対話するのだ。
「英雄」は私の心に親しげに話しかけてくる。
困ったことがあれば何でも相談してくれたまえ、とでもいうような深い声で。
気が付くと、ベートーヴェンは大きくて男らしい、温かい手を私たちの肩に置いてくれている。生演奏を聴くとはそういうことだ。
十数年前のことだが、ウィーンの音楽学者オットー・ビーバ博士がサントリーホールでおこなったモーツァルトについての講演会で、こんな言葉でしめくくったことがある。
「果たしてこの現代、私たちはモーツァルトの音楽にとって、ふさわしいでしょうか?」と。
後日、ビーバ博士がOTTAVAの私の番組に出演してくださったのを機に、それについて確認してみた。
「あれはどういう意味でしょうか?『この混乱した私たちの時代にとって、モーツァルトの音楽はふさわしいのでしょうか』という意味ではないのですか?」
ビーバ博士ははっきりと否定した。
「そうではありません。『現代の私たちは果たしてモーツァルトの音楽にふさわしい存在であり続けているのでしょうか?』という反省の意味を込めて言ったのです」
これもまた、モーツァルトの音楽を意思的な主体として捉える考え方である。
聴衆は一方的に演奏家を観る、聴く、クオリティを評価する、だけの存在ではない。
まるで生命をもつ存在であるかのように、たとえば交響曲第41番「ジュピター」はこちらをいぶかしげに見つめ返してくる。
そのとき私たちが感じるのは、ビーバ博士と同じように、襟を正したくなるような思いではないだろうか。
鑑賞行為の本質とは、すなわち対話である。
細部まで音楽の何もかもすべてを理解することはできない。
ある友人のことを100%知りぬいたと思うのが傲慢なのと同じである。
それよりも、たとえワンフレーズでもいいから、作品が私たちに語り掛けてくる瞬間があったと思えるかどうか、まずはそこからが始まりである。

いよいよ桜の季節。黒い幹と枝があってこそ桜は面白い。