COLUMN
2025年4月
美しさと崇高とメンデルスゾーン
『増補新版・美しいをさがす旅に出よう』(田中真知著 白水社)がとても面白かった。
著者の田中真知さんは、エジプトに暮らし、中東やアフリカを広く旅して回った経験をもとに、旅やコミュニケーションなどをテーマとした著作を発表してこられた方だ。
この本は、美しいとはそもそも何なのかという根源的な問いをもとに、世界のさまざまな古今の文化を巡っていくという内容で、序文から惹きこまれた。
「美しさとはさまざまであり、しかも、それは変化する。こわいのは、そのダイナミックな感覚が失われ、ある特定のものだけを美しいとみなすような、こわばった見方に陥ってしまうことだ」(9ページ)
これは、多くのクラシック音楽ファンにとって、あるいはもっと広く、すべての芸術愛好家にとって、肝に銘じなければいけない警句だろう。
たとえば、かつてバルトークの音楽は、無機質で前衛的で冷たいと言われていた。
いまからすると信じられないことである。
ところが1980年代くらいからだろうか、急速にバルトークの音楽は多くの人に支持されるようになった。クールでかっこいい響きとリズム、そして泥臭さと洗練の絶妙なバランスに人々が気づき始めたのだ。
当時、ある年配の音楽ファンがこう言っていたのを覚えている。
「時代と共に、私の耳の聴こえ方が変わってきたような気がするんです」
田中真知さんの本のなかで、とりわけ音楽に引き寄せて考えたいと思ったのが、西洋世界における風景画の登場と、崇高という概念について書かれた箇所である。
中世・ルネサンス期までのヨーロッパでは、人々は自然に対して親近感を持っておらず、「手つかずの自然は恐ろしいものでしかなかった」という。
人々が「野生の自然や山を魅力的なものとして感じるようになるのは18世紀になってから」であり、それまでは恐怖や嫌悪の対象でしかなかった岩山や断崖や暗い森に対して、「崇高」と呼ばれる新しい美しさを発見したのである。
「『崇高』とは、巨大なもの、荒々しいもの、恐ろしいものなどにふれたときに湧き上がる美的感情である」(24ページ)
18世紀末から音楽においてもロマン派の時代が始まると、こうした「崇高」を風景画のように描いた音楽が多く見られるようになる。
ベートーヴェンの交響曲第6番「田園」、シューベルトの「岩の上の羊飼い」、ブラームスの「アルト・ラプソディ」、マーラーの「交響曲第3番」、リヒャルト・シュトラウスの「アルプス交響曲」、そしてシベリウスのすべての交響曲など、自然における崇高美は、クラシック音楽における重要なテーマのひとつである。
なかでもメンデルスゾーンは、ワーグナーが「第一級の風景画家」と評したほど、自然の風景にこだわった人であった。
わずか20歳でバッハの「マタイ受難曲」の復活上演を成し遂げたメンデルスゾーンは、バッハの次の目標を求めるかのごとく、すぐさまイギリスへの一人旅へと出かける。
スコットランドでは、かつてメアリー女王が暮らしたエディンバラのホーリールードハウス宮殿の廃墟を訪れ、最北端のヘブリディーズ諸島では無人島のスタッファ島にも足を延ばし、壮大な奇岩の絶景を見学している。
こうした体験をもとに作曲された、交響曲第3番「スコットランド」の第1楽章や序曲「フィンガルの洞窟」には、暗い空を流れる雲、荒れ狂う海の様子が描かれている。
自然を愛し、それを音楽で描いた作曲家はたくさんいても、まだ交通機関も整っていない時代に、相当強い意志を持って、時間をかけて、ここまで最果ての地にまでわざわざ足を運んだ例はあまりない。生涯旅を愛したメンデルスゾーンは、荒れ果てた風景の中に「崇高」を見出そうとした、最初の作曲家かもしれない。
田中真知さんの本に話を戻すと、美しいということについてのこんな記述もあった。
「『美しい』とは経験である。燃えるような夕映えだろうと、花の咲き誇る高原だろうと、名画や名曲とされている芸術作品だろうと、なにも感じなかったら、それはあなたにとって『美しい』ものではない。
逆に、朽ち果てた廃屋だろうと、枯れて萎えた草だろうと、あるいは居酒屋の外に漏れてくる調子外れの戯れ歌だろうと、それがしみじみと心に響き、魂を奪われるような経験をもたらしたのなら、それはあなたにとって『美しい』のだ。
『美しい』とは、世界とあなたとの関係性の中で生じる経験だ」(219ページ)
全くその通りだと思う。
メンデルスゾーンが、それまで誰も寄り付かなかったであろう最果ての島の荒れ狂う海と岩を一人でわざわざ観に行ったのは、単なる好奇心だけからではない。
そうした風景を通して、魂を奪われるような経験――バッハのマタイ受難曲に匹敵するくらいの――を求め、自分自身を成長させたかったからに違いない。

自然の中の崇高ということで、すぐに思い浮かぶのは谷川岳の一の倉沢。魔の山と呼ばれ、多数の登山者が犠牲となっているこの峻厳な山に惹かれる人は多い。