COLUMN
2025年5月
風景と情景の密接な関係
6月28日、「音楽でたどる風景の歴史」という講座のため、久しぶりにクリークホールを訪れることになった。再びこの場所に足を運べることを、心から楽しみにしている。今回は、講座で扱うテーマのひとつとして、風景と情景の関係に触れてみたい。
風景は「ランドスケープ(landscape)」、情景は「シーン(scene)」だろう。
風景が自然や都市の景観、地形を含む広がりを意味するのに対し、情景には物語や記憶の場面としてのニュアンスがある。演劇やオペラ、バレエで「第1場」と言うとき、それはまさに情景だ。
芸術表現において、両者は深く影響し合う。
ヴィヴァルディの「四季」やベートーヴェンの「田園」は、風景描写音楽の一例だが、単に光や風、土地の広がりを描くだけではない。そこには人間の感情というフィルターがかかっており、語られざる物語がある。
シューベルトの歌曲では、風景の描写が登場人物の内面を映すことが多い。たとえば「冬の旅」の雪景色は、主人公の孤独や疎外感を象徴する情景となっている。
シューマンのピアノ小品集「森の情景」には、可愛らしい曲たちの中に混ざって「呪われた場所」という曲がある。青白い花々の中に、血を吸った一本の赤い花。一見何の変哲もない静かな風景の中に、恐ろしい物語が潜んでいる。
日常においても、私たちは風景に物語を重ねながら眺めている。
満開の桜は、卒業や入学、出会いと別れ、花見の記憶を呼び起こし、季節の風景をより味わい深いものにする。
特別なお気に入りの風景は、それ自体が人生の宝物だ。
私の場合、それは東京・文京区の小石川植物園である。
何十年も通い続けているが、昔も今も変わらず、できるだけ自然のままの状態を保ち、さりげなく管理が行き届いている。雑木林や草むらへ自由に踏み込めるのも魅力で、急な斜面に身を置くと、都心にいながら遠い山奥に迷い込んだような気分になる。公園のあちこちに、いつしか人生の記憶が刻まれるようになった。
オペラの中にも、心の拠りどころがある。
たとえば「フィガロの結婚」第4幕、バルバリーナの短いアリア。
喜劇の中のひと場面を超え、一篇の詩的情景とさえ思える。
賑やかな舞台の中で、このアリアはほんのひとときだが、まるで時間が止まったように感じられる。短調の静かな響きは涙に濡れたようにシリアスである。庭師の娘バルバリーナが失くしたピンを探しながら歌うこの曲には、単なる困惑以上の何かがある――まるで、心の中の最も大切なものを喪失してしまったかのようだ。
ある演出では、彼女の背景がすべて夜空の星々だった。
瞬く星たちの真ん中に浮かんで、一人寂しげに歌う少女の姿は、今も目に焼き付いて離れない。
それは演出家による、モーツァルトの音楽への最大級のオマージュであり、「フィガロの結婚」という物語から離れ、一つの詩として結晶していた。
私は満天の星空をいつも見たいと願っているが、都会ではなかなか叶わない。
もしいつか無数の星々に囲まれることがあれば、その夜空の風景とともに、私はいくつかの音楽を思い出すだろう。きっと、バルバリーナのアリアもその中に含まれている。
風景はそれ自体で美しい。
だが、そこに物語の情景が入り込むことで、一層豊かなものとなる。

雨上がりの公園を歩くと、水滴の美しさに目を奪われる。こうした微視的な風景もいいものだ。