COLUMN
ギターは境界線を軽々と越えていく
この6月末に、久しぶりに札幌に行った。
アドバイザーをつとめさせていただいている、このクリークホールでの講演会と、その翌日の秋田勇魚(いさな)さんのギター・リサイタルがあったため、2泊3日の滞在となった。
音楽と風景をテーマにした私の講演会には秋田さんも参加してくださり、いろいろな話をうかがうことができた。
さらには、私からの直前の無茶ぶりリクエストとして、イギリスの作曲家ピーター・マックスウェル・デイヴィス(1934-2016)の美しい小品「さらばストロムネス」をさわりだけだが演奏していただいた。
これは、かつて村治佳織さんがレコーディングして注目された曲だが、その後は日本人ギタリストにはあまり演奏されていないようだ。
快く引き受けてくださった秋田さんには感謝である。
この曲は、1980年に「イエローケーキのレビュー」という舞台作品の上演(作曲者自身が台本を担当)のために作曲されたものである。
なぜイエローケーキかというと、それはウラン採掘と濃縮の際に出る黄色い粉末に由来する。
ストロムネスとは、スコットランド北方の海上にあるオークニー諸島の村の名前で、石器時代からの遺跡もあり、美しく歴史ある土地として知られる。
ところがそこでウラン採掘計画が持ち上がり、土壌汚染によって住み慣れた人々が出ていかなければならない状況を阻止しようと反対運動が起きた。
作曲家のマックスウェル・デイヴィスは実際に現地に住むことでその土地への理解を深め、村の人々の立場に立って「さらばストロムネス」を書いたのである。
つまりこの曲は、国の原子力エネルギー政策による汚染のために、住み慣れた土地を出ていかなければいけない人々の風景を描いている。
ただし、そこには憎しみや怒りの要素は一切なく、静かで美しいメロディが息づいている。
立場や考え方の違いを超えて、多くの人々に訴えかける力がある。
オークニー諸島でのウラン採掘計画は中止されたが、この曲の持っている深いメッセージは今もなお普遍的である。
翌日おこなわれた秋田さんのリサイタルでも改めて感じたことだが、ギターという楽器のピアニシモは実に繊細である。
大ホールでは決して隅々までは届かないであろう、ささやき声のような響き。
指が弦にそっと触れる瞬間の、手つきの優しさ。
湿り気を帯びた、かすかな響きの共鳴は、まるで霧雨のようだ。
すぐ近くにいて、耳をそばだてないと聴こえない、こんな繊細な音楽もあるのだ。
小さな空間で音楽を聴くことのメリットは、そういう音楽が至近距離で体験できることにある。
この贅沢な音を分かち合うには、せいぜい30~40人くらいが限界だろう。
2000人の大ホールで演奏される音楽は、華やかだけれど、パブリックな性格を持ってしまう。
だが、サロンで演奏される音楽は、親密で、プライヴェートな性格を持つ。
もちろん、両者の間に優劣はない。
私は、ギターという楽器は、これからの日本の音楽界でますます重要な使命を持つことになると思う。
まずフットワークの軽さ。どんな小さな場所にも、遠隔地にも出かけていくことができる。個人宅だってかまわない。そこに耳を傾ける人がいればコンサートが成立する。
社会の隅々で孤立感を覚えている人にとって、生の音楽を届けるのに最も便利な楽器がギターなのである。
しかもギターはさまざまな境界線を軽々と越える特性を持っている。
クラシックもジャズも、歌謡曲もワールドミュージックも、ギターなら何でもありだ。
世界のあらゆる民族文化にフィットすることができる。
ギターの響きがそこにありさえすれば、どんな土地にもすんなり馴染む。
まさに風のような楽器である。
そういえば、終演後に秋田さんは楽屋に引っ込まずに、いろんなお客さんと雑談していた。
その気さくさ、話しかけやすさも、サロンのいいところである。
演奏家とコミュニケーションをとるための最良の場所として、クリークホールが今後ますます成長していくのが楽しみである。

リサイタル開演前には、三岸好太郎美術館を訪れた。1934年に31歳で亡くなった画家の最晩年の作「飛ぶ蝶」は、ピンで留められた標本の蝶たちの中で、一匹だけがピンから逃れて飛び立とうとしている。