COLUMN
2026年2月
ジェラルド・フィンジの音楽について
林田直樹
2007年4月にTBSラジオを生みの親として開局したクラシック音楽専門インターネットラジオ「OTTAVA」の象徴のような作曲家が、イギリスの作曲家ジェラルド・フィンジ(1901-56)である。
OTTAVAはロックやポップスのセンスでクラシック音楽をノンストップでかける、その選曲・構成のセンスのおしゃれさと、多彩なプレゼンターによる自由なトークが売り物だった。
開局してまもなく、OTTAVAではイギリス音楽がリスナーにもディレクターにも大人気となった。その筆頭格がフィンジである。
特に「エクローグ」は、ピアノと弦楽オーケストラが奏でる抒情的で美しい旋律に誰もが衝撃を受けた。
他にも「クラリネット協奏曲」「チェロ協奏曲」「5つのバガテル」などが、幾つかの番組でヘビーローテーションでかかるようになった。
フィンジのいいところは、ドイツ・オーストリアを中心とするクラシック音楽でも、やや傍流の感のあるイギリス音楽のなかにあって、さらに目立たず、うるさ方のクラシック・オタクが「幅を利かせる」ことのないひっそりしたポジションにあったことである。
誰も踏み荒らしていない、まっさらな新雪の上を歩くように、クラシック音楽の初心者が、素朴に「いい曲見つけた!」と言える自由があった。
イギリスの音楽ジャーナリスト・元編集者でBBCラジオ3やクラシックFMのプレゼンターをつとめているジェイムズ・ジョリー氏がOTTAVAでの私の番組にゲストで出てくれたときに、フィンジのことを質問すると、彼は少し困ったような顔をした。
「正直なことを言うと、あまりにも好きすぎて、イギリス人以外にはフィンジのことを知られたくない。それくらい大事な作曲家なんです(笑)。ちなみにブリテンは、イギリスだけでなく世界に知られなくてはならない20世紀の最重要作曲家ですが…」
ジョリー氏の気持ちは痛いほどよくわかる。
私も、フィンジが好きだからこそ、あまり騒がれたくないのだ。
BGMとして毎日のように消費されてほしくないし、手垢にまみれてほしくない――それくらい痛々しい悲しみを背負った音楽だと思うのだ。
とはいえ、最近フィンジの音楽がオーケストラの定期演奏会でもちょくちょく取り上げられるようになったのは、とても嬉しいことである。
実演で聴くと、その美しさはいっそう身に染みる。
フィンジの人生には常に死の影がつきまとっていた。
わずか7歳で父を亡くし、慕っていた音楽教師アーネスト・ファーラーは第1次世界大戦で戦死し、さらには3人の兄弟を次々と亡くしてしまう。
思春期のこうした悲劇が、もともと内省的だったフィンジの人生観をいっそう暗くしたのは想像に余りある。
1951年、フィンジは当時不治の病であったホジキンリンパ腫(悪性リンパ腫の一種)にかかり、せいぜい10年の命であることを知る。
「チェロ協奏曲」(1955年)をはじめとする晩年の作品にはそうした事情も影響しているだろう。
フィンジが慰めを見出したのは、特に詩の世界であった。
トマス・ハーディやクリスティーナ・ロセッティ、あるいはウィリアム・シェイクスピアなど、生涯にわたって古今のイギリスの多くの詩に曲をつけている。
中でも私が個人的に好きなのがイエス・キリストの生誕を描いた「ディエス・ナタリス」である。
17世紀イギリスの詩人トーマス・トラハーンの詩は、生まれたばかりのイエスがこの世界をまぶしい思いで見つめるという内容だ。
この曲が示しているのは幼年期の「無垢」である。
フィンジが生涯こだわっていたテーマが、この「無垢」がいかにして失われていくかであり、それをいつくしむ気持ちがこの音楽の核にはある。
16世紀イギリスの詩人ジョージ・ピールの詩によるオーケストラ付き歌曲「武器よさらば」も素晴らしい。
かつて従軍していた戦士の兜のまわりには草花が生い茂り、蜜蜂が巣をつくるというイメージは、反戦のメッセージとしてこれ以上美しいものはないとさえ思う。
フィンジの蔵書は膨大で、英語の詩、哲学、文学を中心に約3000冊にのぼるという(現在レディング大学に保管されている)。
さらには18世紀のイングランド音楽の優れたコレクション——書籍、手稿、印刷楽譜を含む約700冊——も所有していた(現在はセント・アンドルーズ大学に保管)。
つまりフィンジは音楽の抒情詩人というだけでなく、過去の文学や音楽を徹底的に研究していた。
フィンジはイタリア系の父、ドイツ系の母のもと、ロンドンのユダヤ人家庭に生まれた――いわば移民の家系をひく都会の青年である。
だが彼はイングランドの田園風景をこよなく愛し、イングランドの文学と音楽のルーツを深く学んで創作活動の糧とした。
つまり、自身のルーツが外部にあると知りながらも、自ら望んで真のイギリス人になろうとした作曲家であった。
フィンジは芸術家(主に画家、彫刻家、詩人)のジョイ・ブラックと結婚し、イングランド南西部の丘陵地帯オールドボーンに住み、リンゴ栽培と作曲に専念する(のちにバークシャー、ニューベリー近郊のアシュマンズワースに移住)。
当時のフィンジの日記にはこう書かれている。
「終始、誰一人として見かけなかった。霜の降りるような霧で暮れていく10月の一日、家に帰れば暖炉の火と、ティータイムの卵料理が待っている」
フィンジは約400種ものイギリスのリンゴを自らの農園で栽培していたという。その中には絶滅しかかっていた希少種も含まれている。
それは、本来は世界各地で膨大な品種の多様性を持つリンゴが、農業生産に向いた品種に向けて画一化の一途をたどる傾向に対する危惧でもあったのだろう。
フィンジは、音楽や文学であろうと、リンゴであろうと、選ばれた希少なものを永続させることを喜びとしていたという。
それは、何世紀もこえて良き友人と握手することと同義であり、イングランドの土壌に自らの根を植える行為でもあった。
フィンジの音楽には、常に「はかなさ」への意識がある。
失われた過去への愛惜。滅びかかった美しいものを残したいという願い。
それは、いつの時代でもどこの国でも共感を呼ぶ、普遍的な芸術のあり方でもある。
※出典と参考資料:ジェラルド・フィンジ公式サイト、クラシックFM公式サイト、オールドボーン・ヘリテージ・センター公式サイト、他

絶滅から救われたイギリス固有種「ノーマンズ・ピピン」。国立果樹コレクションにフィンジから寄贈されたリンゴの一つで、果実は柔らかく、果肉は緑がかった白色をしており、甘く芳醇な風味を持つとされる
