COLUMN
2026年3月
老化と心の耳
林田直樹
以前、ある高齢のピアニストの素晴らしいリサイタルを聴いた後に、楽屋に挨拶に行ったときのこと。
いろいろ雑談をしていてふと気が付いた――ああ、この人は耳が遠いのだと。
私がその時驚いたのは、そのピアニストのつい今しがたまでの演奏が、最高に研ぎ澄まされた耳でなければ聴き取れないほどの精緻なピアニシモを表現できていたこととのギャップである。
ずしりとした重量感のある低音から、神秘的な音階によってゆっくりと上昇し、聴き取れるか聴き取れないかの、世にも美しい最高音域の、かすかな光の点のような音へと至る過程に、こちらは魂の震えるような思いをさせられたというのに。
おそらく、そのピアニストにとって、いま自分が弾いている音楽はどのようにあるべきかという像は、心の中には明確に結ばれていたのである。
だから、耳の感覚が衰えていようとも、長年の経験と技術によって、その音は実現できるのだ。
どんなに鋭敏な耳を誇る音楽家であろうと、老化とともに、聴覚の衰えはやってくる。人間である以上、そこは平等なのである。
問題は、その老化とどう付き合っていくかだ。
私自身も、耳の衰えを痛感したことがある。
あるコンサートで、休憩時間に前の席に座っていた若者から注意されたのだ。
「あなたの抱えているカバンが、呼吸とともに擦れてカサカサいうんです、それを止めてもらえませんか」。
それはごく微細なモスキート音で、若い人の耳は良く聞こえたが、ノイズを立てている当人の私には全く分からなかった。
演奏中に完全に静粛にしていることにかけては自信があっただけに、これはショックだった。
自分には聞こえない音が明らかに存在していて、それが若い人には聞こえるという厳然たる事実を受け止めるのにはいいきっかけでもあった。
神様は、年取った人間から少しずつ聴覚を奪っていくが、そのときに失われるのは高音域を聞く能力のほうで、低音域を聞く能力を残してくださっているのは、とてもありがたいと最近は思うようになった。
なぜなら、音楽における低音とは楽曲構成における骨格のようなもので、そこをしっかり感じることが、音楽のうまみを味わう上では欠かせないからだ。
では、音楽における超高音、倍音とは何かというと、おそらく音楽の香りの要素だと思う。
その香りを嗅ぎ取りにくくなった高齢者を支えてくれるのは、先ほどのピアニストにあったような、心の耳によって補正する能力なのだろう。
1年ほど前に、副鼻腔炎をきっかけに一時的に難聴になったことがある。
そのときの難聴はかなりひどく、片方の耳だけだが、オーケストラが最強音で演奏しているときに、耳の中で響きが歪んでしまって、耐えがたい苦痛を味わった。
1~2か月ほどで完治したので、健全な聴覚を再び取り戻させてくれた神様には感謝している。
そのときに、耳鼻科で聴覚検査を何度もおこなったのだが、単にヘッドフォンから周波数の異なる断続的なピー音を聴きとるだけでなく、骨伝導の検査も受けたのが強く印象に残っている。
つまり聴覚とは、骨から伝わる振動でも感じるものなのだ。
そういえば、ベートーヴェンは難聴が進行してしまったときに、何とかピアノの音を聴くために、歯で棒をくわえてピアノから伝わる振動を感じようとしたと読んだことがある。
実際、振動は音楽の一要素である。
以前モスクワ音楽院の大ホールでコンサートを聴いたとき、足元の床下がおそらく空洞になっていたせいなのだろう、演奏と少しずれたタイミングで地震のように床が揺れるのにびっくりしたことがある。
それは、オーケストラのダイナミズムを体感させる不思議な効果があった。
昔は聴衆が興奮するほどの名演奏によって「劇場が揺れた」という言い方をしたものだが、実際本当に揺れたのかもしれない。
12歳の時に聴覚を失ったにもかかわらず、世界的に著名なパーカッショニストとなったエヴェリン・グレニーは、こう語っている。
「私は耳だけで聴いているわけではありません。
手や腕、頬骨、頭、お腹、胸、脚でも聴いています。
身体を開き、振動を感じ取ろうとすると、ほんのわずかな違いを指先で感じ取ることができるようになります。
レッスン室の壁に手を置きながら楽器の音を聴くこともあります。
耳だけでなく、身体全体で音を感じようとするのです。
音は触れていなくても感じることがあります。
木が揺れるのを見て、葉擦れの音を想像するのと同じです。
何かを見るとき、そこにはすでに音が存在しています。
雪の音を聴いたことがなくとも、それを想像することが大事なのです。
私はいつも巨大な万華鏡の中にいるように感じています」
私はできるだけイヤフォンでは音楽を聴かないようにしている。
スタジオで番組を進行するときにはヘッドフォンを使うけれど、それは必要に迫られてのことである。
イヤフォンで音楽を聴くことは、いうなればストローで酒を飲むようなものである。
酒は顔全体で、身体全体で受け止めるように五感で味わいながら飲むものだ。
それと同じことが音楽についても言えると思う。
足の裏でも背中でも、全身の皮膚でも、音楽を受け止めることを意識する。
そして、音への想像力をできるだけ働かせる。
そうすればきっと、老化など全く怖がる必要はないと思っている。

「二つの花束」(マルク・シャガール、1925年 油彩/埼玉県立近代美術館)の部分拡大。生々しく厚塗りされた花と、夢のようにぼかした葉との対比が、感覚を刺激する
