COLUMN
2026年7月
シアトルとパリで活躍した裸婦の画家・田中保
林田直樹
日本近代音楽への強い関心は、ここ30年ほどのクラシック音楽界における顕著な傾向である。
同時に、日本近代美術への関心も高まっている。
一昨年に大きな注目を浴びた田中一村(1908-77)や、昨年から今年にかけて大規模な巡回展で話題となっている髙島野十郎(1890-1975)など、生前は地道な活動を続けていた画家たちの作品が、最近とみに脚光を浴びている。
いま個人的に最も気になっているのが、シアトルやパリで大きな成功を収めながらも日本の画壇からはほとんど無視され、戦時中のドイツ占領下のパリでひっそりと亡くなった田中保(たなか やすし 1886-1941)である。
初めてその絵を観たときの衝撃は、忘れもしない。
池田20世紀美術館でボナール、ムンク、シャガールらと共に常設展示されていた「夢をみる裸婦」にくぎ付けになった。
裸身の美女にまとわりつく異形の怪物という構図がまずショッキングである。
しかしそれは怪物に変化した男の妄想ではなく、美しい女性が想う「夢」なのだ。
白い肌には、怪物のグロテスクな皮膚の影が病のように伝染している。
そしてこの怪物は見た目の気持ち悪さの割には、案外おとなしく優しそうでもある。
芸術というよりは、現代のサブカルのアニメにも通じる不思議な世界だ。
こんな絵を描いていたら、世間からは風紀を乱すとして非難されても当然だろう。
しかし、本人の芸術に対する姿勢はどこまでも厳格で、真摯なものだった。
田中はこう書いている。
「芸術は論理であり、『水差し入りのワイン』ではない。それは真剣に取り組むべき事柄であり、きまぐれな道楽ではない。またそれは、形を通して現われる純粋な理念であり、色や音を型通りに組み合わせて人を欺くことではない」
「芸術は、あくまで個にかかわる問題であり、言い換えれば、個人の心的、精神的な活動の表明である。それは、決して定式化され得るものではなく、またされるべきものでもない」
※出典:「画家タナカ・ヤスシ シアトルとパリにかけた夢」(埼玉県立近代美術館)、1915年にシアトルの新聞に田中が寄稿した記事「芸術のあるべき姿」(水谷みつる訳)より
田中は多くの裸婦像を描いている。
そのどれもが美しく官能的で、女性への賛美の念にあふれている。
のちに妻となった美術批評家・ルイーズ・ゲブハード・カンがモデルとなっているとされるが、ルイーズによれば「モデルを使わずに描かれたもの」という。
海辺の景色などの風景画も多いがそれも同様で、決して自然を前に描くことはなく、想像力によって人物や自然を思いのままに変形し創造するタイプの画家でもあった。
目に見えないものを描くことは、耳で聴こえない音を作曲するのと同じくらい、想像力を必要とする――それは芸術の深い本質でもある。
田中の生まれは現在のさいたま市岩槻区で、旧制浦和中学校(現在の埼玉県立浦和高等学校)の卒業生である。
埼玉県立近代美術館の元学芸員、大久保静雄さんの調査によると、通学していた頃は現在のさいたま市南区別所のあたりに下宿していたという。
それはたまたま私の実家のすぐ近くであり、同じ高校に通っていたということもあって、個人的にも不思議な縁を感じている。
田中は卒業すると間もなく18歳で単身渡米し、シアトルで農業やピーナッツ売りやコック見習いなどをしたと伝えられるが、まもなく画家の道に進んだ。
つまり東京美術学校のようなアカデミズムの世界とは全く無縁だった。
モンパルナスに住み、詩人で文芸評論家のエズラ・パウンドや作家のアーネスト・ヘミングウェイとの交流はあっても、当時パリにおおぜい滞在していた日本人画家たちとの付き合いはほとんどなかったという。
ちなみに、田中がパリに移った1920年5月は、ドビュッシーは亡くなっていたものの、フォーレは最晩年、サティは家具の音楽を提唱し、ラヴェルは「ラ・ヴァルス」を完成させ、プーランクをはじめとするフランス六人組が華々しく登場した頃であった。
そうした芸術の都パリにあって、フランス政府や日本の皇室が田中の絵を購入するほど成功していたにも関わらず、日本で正規の美術教育を受けていなかったことは、日本で認めてもらうには大きなハンディだったのである。
パリで同じように成功していた日本人画家に、同い年の藤田嗣治がいる。
藤田は自己演出力、セルフ・プロデュースにたけた天才であり、反逆児的だったとはいえ、東京美術学校を出ている。国際派でありながら日本とのつながりも強かった。
日本の画壇からは相手にされなかった田中の不遇ぶりとは対照的といえる。
このあたり、音楽の世界でも同じようなことが言える。
海外で活躍している日本人アーティストは多いが、それが必ずしも日本での知名度にはつながっていない。
逆に、日本国内では有名でも、海外では全く知られていない人も多い。
藤田嗣治のような国際級大物になるためには、海外と日本との往復運動タイプのアーティストになることが、条件の一つなのかもしれない。
とはいえ、最後にモノをいうのは作品自体の力である。
生前は認められなくとも、作品が素晴らしければ、その価値はやがて国境を越えていく。
美術でも作曲でも同じことである。
田中保も、作品の多くが所蔵されている埼玉県立近代美術館を主な発信地としつつ、今後もっと人気が高まっていくと信じている。

田中保「夢をみる裸婦」(1930年) ※「1920~30年代 ラプソディ・イン・パリ 田中保をめぐる画家たち」(埼玉県立近代美術館)より
池田20世紀美術館所蔵
https://ikeda20.or.jp/archive/collection/?#library
