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COLUMN

2026年8月

ビアズリーとワーグナー

​                         林田直樹

あれから1年半も経つが、三菱一号館美術館の「異端の奇才 ビアズリー展」(2025年2月15日~5月11日)で観た1枚の絵が、いまも脳裏から離れない。

 

それは「ワーグナー崇拝者」(The Wagnerites/1894年)と名付けられた、オペラ「トリスタンとイゾルデ」が上演されている劇場の客席の様子を描いた1枚である。

舞台に集中している人々の中で、一人だけ隣の席の人をにらみつけている女性の顔が印象に残る。

 

その苛立ちの表情は、ちょっとした物音やマナー違反か、何か些細な迷惑行為に向けられているようだ。

この種の険悪な雰囲気は、現代のコンサートやオペラでしばしば見かけるのと同じ性質のものである。

 

オーブリー・ビアズリー(1872-98)がこの絵で伝えたかったことは、上演中に静かにしていられない質の悪い観客への怒りというよりは、むしろこの「崇拝者」たちの醸し出す殺気立った全体の雰囲気への違和感だったのではないだろうか。

 

これまでに私は合計で数千回くらいのコンサートやオペラに足を運んできたが、自分でも気づかないような、無意識のうっかりした迷惑行為に対して他人から注意されたことが過去に3回だけある。

その瞬間の恥ずかしいことと言ったらない。

 

その一方で、近くの席の人のマナー(飴の包み紙を開けるジリジリ音や耳障りな鼻息やいびき、大柄な人の腕のはみ出し、カリカリと音を立ててメモを走らせるペンの音…)に怒りを感じて、よほど注意しようとしたが思いとどまった回数は、その百倍くらいはある。

 

ビアズリーの時代から、観客席ではそういうことはしばしばあったようだ。

興味深いのは、ビアズリーがその絵に「ワーグナー崇拝者」と名付けていることだ。

 

ビアズリー自身ワーグナーに心酔し、世にも美しいジークフリートやイゾルデの空想的肖像画を描いているし、同時代のイギリスの作曲家スタンフォードの肖像画も描いている。

有名な「サロメ」の挿画は、オスカー・ワイルドの戯曲との関連はあっても、シュトラウスのオペラを念頭に置いたものではない。

だが、その様式的で退廃趣味の画風は当時の芸術思潮の最先端を行くものだった。

 

私が「ワーグナー崇拝者」に惹かれるのは、ビアズリーが単なる耽美主義者だったのではなく、その芸術をめぐる人々の様子にまで鋭い観察眼を向けている、社会的なまなざしを持った表現者である点だ。

 

ビアズリーの絵は、その多くがペンと筆による白黒で描かれている。

「ワーグナー崇拝者」をはじめとする多くの作品が、当時急速に精度を高めて発展した写真製版による印刷技術を前提としたものだったことも留意すべきである。

インターネットはおろか、放送も録音もなかった時代、メディアの最先端技術は、常に出版・印刷とともにあった。

つまり、ビアズリーは新しいメディアに最適化したスタイルで絵を描き、時代の寵児へと駆け上がったのである。

ビアズリーは確かにユイスマンスの「さかしま」の影響を受けた、象徴主義的な美学を身にまとってはいたが、必ずしも芸術至上主義者ではなく、むしろ芸術の外側で起きていることに対しても敏感な、ジャーナリスト的な面も持っていた。

同時代にパリで活躍していたフェリックス・ヴァロットン(1865-1925)の木版画とも、そこは共通している。

 

「ワーグナー崇拝者」にもう一度目を向けると、観客席の人々の右下の足元には「トリスタンとイゾルデ」と書かれたプログラム冊子が床に落ちている。

1890年代にワーグナー熱は一大流行であり、音楽に真の理解も興味もない俗物たちが劇場にこぞって足を運んでいたことを、ビアズリーは皮肉っているのだとする解釈もあるが、本当のところは分からない。

芸術に対するスノビズムは、人を成長させることもあるからだ。

そういうこともすべてビアズリーは分かっていて、ありのままの当時の劇場の様子を伝えてくれているのではないか。

 

劇場やコンサートホールで、演奏や舞台に対して人々が真剣になればなるほど、ピリピリした雰囲気はどうしても生まれてしまう。

その並外れた緊張した状況に飲み込まれて自分もピリピリするだけでなく、ウィットを含んだ客観的な感覚で全体を観察してみることの大切さを、ビアズリーは教えてくれている。

第28回写真.JPG

「ワーグナー崇拝者」(The Wagnerites/1894「イエロー・ブック」第3巻掲載、『異端の奇才 ビアズリー展』公式図録・青幻舎より。ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館(V&A)所蔵)

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