COLUMN
2024年4月
「静寂」についての、さりげない考察
月に一本、ここでコラムを書かせていただけることになった。
考えてくださった「静寂の向こう側」というタイトルが素晴らしくて、話が決まったときからわくわくしていた。
何て音楽的なイメージを喚起する言葉だろうと思った。
あらゆる舞台芸術において、静寂はその大前提であり、めざすべき目的地である。
よりよい静寂に出会えるからこそ、人はコンサートホールや劇場に足を運ぶ。
日常生活のなかでは、特に都会においては、騒音から逃れることはなかなか難しい。
たとえ一人で自分の部屋にいたとしても、耳を澄ませてみると、さまざまなモーター音に取り囲まれていることに気が付く。
蛍光灯や冷蔵庫、パソコンやエアコンなど、微細なノイズを発している機械は多い。
気にしていなかったとしても、よく注意してみると、それらは案外うるさいものである。
静寂を求めるかどうかは、自分自身の気分的な問題でもある。
手持ち無沙汰でついついスマホでYouTubeを見てしまったり、テレビを点けてしまったりする。
何も音がないことに、誰かの気配がないことに、人は案外耐えられないものである。
何となく淋しくなってしまうからだ。
そういう意味では、BGMは淋しさを紛らわすための手段の一種なのかもしれない。
だが、そこにはもう静寂はない。
「静寂と自由は、最も偉大な財産だ」とベートーヴェンは語っている。
この言葉は、今から20年以上前、ポルトガル出身のピアニスト、マリア・ジョアン・ピリス(ピレシュ)のCDを通して知った。
ピアノ・ソナタの作品27の2曲(第13、14番《月光》)、作品109(第30番)が入っていて、穏やかさを基本としたその構成が良かった。
特に《月光》の第1楽章のしっとりとした静けさと神秘性には、何度聴いてもハッとさせられる。
表現に誇張がなく、謙虚なところがいい――あの嵐のような第3楽章にしても。
第30番の天から音の粒が夢のように降ってくるようなあの開始も、そっとさりげなくて、小さくてはかないものの価値を知っている人の音楽のように感じられる。
紙ジャケットには大きな月の写真が掲載され、中にはベートーヴェン以外にもヘッセ、リルケ、アイヒェンドルフ、フルトヴェングラーらの言葉がセピア色の自然の風景の写真とともに添えられていた。
「偉大なもののそばでこそ、人は成長できる」というリルケの言葉も印象的だ。
ベートーヴェンは、よく散歩する人だった。
ウィーン中を歩き回り、森を散策しながら、楽想を練り、メモ帳に書きつけた。
ときには何時間も歩き回り、雷雨で土砂降りにあい、ずぶ濡れになって夜中に帰ってくるようなこともあったという。
ベートーヴェンにとって散歩とは、作曲するために不可欠な行為であり、音楽が生まれる前提となる静寂を得るための、おそらく最も重要な手段だった。
静寂とは、何となくそこにあるものではない。
人生における積極的意味を持ち、そのために行動するほどの価値のあるものだ。
きょう一日のなかで、たった一度だけでいい、時間にして数分でもいいから、人生における最高の宝物といえるような静寂を、私たちは得られただろうか?

住宅街の外れにある公園にて、雨上がりの後に