COLUMN
2025年8月
石上真由子とシューベルトの「死生観」
ヴァイオリニストの石上真由子が、オペラシティの主宰する若手演奏家の登竜門として有名なリサイタル・シリーズ「B→C」(ビー・トゥ・シー)に江崎萌子とのデュオで出演するのを聴きに行った8月26日、私は会場に行く道すがら、なぜかシューベルトの連作歌曲集「美しい水車屋の娘」のことが頭から離れなかった。
カール=ハインツ・シュッツのフルートと、鈴木大介のギターによるカメラータ・トウキョウからリリースされたシューベルトのCDをたまたま聴いて、器楽で演奏するシューベルトの歌曲の演奏の可能性のことを考え続けていたからだ。
とりわけ「美しい水車屋の娘」からの何曲か…そこには明らかに、死の匂いがある。
愛の終わりを認めざるを得なくなった喪失感のなかで、ひとりの青年が花咲く野の小川に向かって語り掛ける――この冷たくて深い流れに吸い寄せられていったら、楽になれるだろうか?――可憐な旋律はそう語っていた。
脳裏にまとわりつくシューベルトの音楽を振り払い、オペラシティ・リサイタルホールの席について、プログラム冊子を広げて驚いた。
石上自身の文章で、たまたまこう書いてあったからだ。
「“死”について考えるとき、私の心には必ずシューベルトが寄り添っていて、私はこの作曲家の死生観に深い憧れを抱いているのだなあと思うのです」
この日のプログラムは、シェーンベルク、ストラヴィンスキー、夏田昌和、バッハ、イザイ、細川俊夫、キム・ジェドクの委嘱新作(マーラーの交響曲第9番からの引用を含む)。
冊子の巻頭文に、演奏曲目として予定されているわけでもないシューベルトについて石上が書いていたことに、不思議な偶然の一致を感じた。
自殺を夢見たことのないロマンティストが、果たしてこの世にいるのだろうか。
ロマン派の始まりに、ゲーテの「若きウェルテル」が位置していることに、それは象徴される。
もちろんシューベルトにとって死とは単なる甘美な憧れというだけではない。
市民社会の自由が失われ、言論が弾圧され、閉塞感を強めていくウィーンの精神的な冬とも、それは関係していたに違いない。
そう長く自分の人生はもたないのではないかという予感めいたものも当然あったろう。
この日の石上真由子の演奏は、通常のヴァイオリンだけでなく、ヴィオラと、バロック・ヴァイオリンをも用いながら、曲と曲との連続性を作り出し、1曲ごとに響きの質をガラリと変化させ、リサイタル全体がひとつの大きなドラマになるような設計だった。
特に前半最後のバッハの無伴奏シャコンヌは、顎当てなしで演奏するリスクをとる代わりに、響きのオーラはたとえようもなく美しかった。後期ロマン派的な誇張からは距離を置き、するするっと抜けるような装飾音も挿入しつつ、そこには「軽さと深刻さの共存」があった。
アンコールはマーラーの「原光」、そしてシューベルトの連作歌曲集《美しい水車屋の娘》から「小川の子守歌」「好きな色」。とても納得感のある流れだった。
ピアノの江崎萌子の演奏も素晴らしく、安定感と集中力、深みある響き、すべてにおいて非凡だと思った。
常々私は、ヴァイオリニストだけが陽の当たる場所に出て、ピアニストが「伴奏者」などと言われてまるで執事のように一歩下がる傾向を残念に思っている。
真に音楽的であろうとするなら、ヴァイオリニストとピアニストは同格であり、「デュオ」であるべきなのだ。
石上真由子と江崎萌子がそういう信念をもって「デュオ」を組んでいるのは明らかだ。
次回のクリークホールでの二人の登場は、2026年3月15日が予定されている。
きっと素晴らしい演奏会になることだろう。

石上真由子と江崎萌子のデュオM&Mによる新譜アルバム「他人の顔」(キングレコード)。シマノフスキ「神話」をはじめ、見事な演奏が楽しめる。
