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COLUMN

2026年9月

能「須磨源氏」を観て考えたこと

​                         林田直樹

年に数回は能を観に行くようにしている。

コンサートやオペラの雰囲気とは違って、能楽堂の静粛な空気には独特なものがあり、会場にいるだけで身も心も引き締まり、清新な気持ちになる。

橋掛かりをゆっくりと入退場する能楽師の足取りは厳かで儀式的であり、劇の始まりにおいても終わりにおいても、観客は静寂を保ったまま、拍手もせず、かなり長い時間、それを見守らなければならない。

能の描く世界の非日常性と、私たちの暮らしの日常性の間に、グラデーションのような余白が作られている。余韻のためのスペースがある。

専門的なことはわからなくとも、あの空間に身を置くだけでも心が落ち着く。

 

9月11日には観世能楽堂での銕仙会9月定期公演を観に行った。

以前から気になっている女性能楽師・鵜澤久がシテを演じる「須磨源氏」(作は世阿弥と伝えられる)が目的である。

 

舞台は摂津の国、須磨の浦、晩春。

この地には、蟄居していた光源氏が植えたという由緒ある名木・若木の桜がある。

日向の国の神職・藤原興範(ワキ)が伊勢参りの旅の途中でここに立ち寄る。

 

そこに、一人の老人が現れる。

聞けば、日々釣りをして塩を焼き、薪を取っては浮世の暮らしをしているという。

賤しい身なりにもかかわらず、若木の桜に花を手向け、風流を理解する様子。

「今宵、月の光の下で奇蹟を見せよう、なぜならこの私こそ…」と言うと、忽然と姿を消してしまう。

 

澄んだ月光が浜辺を照らす中、天から音楽が聴こえてくる。

そこに降臨したのは兜率天(とそつてん、弥勒菩薩の住む天上界)からやってきた、輝くばかりに若く美しい光源氏の姿であった。

青鈍色(あおにびいろ)の衣をまとった光源氏は、かつて紅葉賀(もみじのが、秋の紅葉の季節に天皇の御代を祝う貴族たちがおこなった宴)でその美しさを称賛された思い出の舞「青海波」(せいかいは)を再び舞い、曙の空に消えていく――。

 

鵜澤久が演じたのは前シテ(老人)と後シテ(光源氏)の二役。

最初に老人の姿で登場したときには、そのまま倒れてしまうのではないかと思うほどはかない雰囲気であった。

後半に光源氏の姿で登場すると、ただ単に立っているだけ、ゆっくりと歩いているだけなのに、凛々しい若さが伝わってくる。それでも晴れやかさはなく、どこか憂いを残している。

特に素晴らしいのは声である。

面の下からくぐもった声で語るのだが、老人の声にしても、光源氏の声にしても、そこには異界から響いてくるような超越性が感じられるのだ。

この不思議な声は、女性とも男性ともつかぬ中性的な声の響きだからこそ、得られる特性のように私には思われる。

能とは伝統的に男性中心の芸能としてあり続けてきたが、鵜澤久の小柄な姿と声に、むしろ女性能楽師ならではの凄みを感じる。

高齢の男性能楽師が若い娘の役を美しく演じることができるのだから、逆も当然あっていい。

 

「須磨源氏」はどちらかというと質素な能である。

目立った小道具などの仕掛けもないし、衣装もそんなに派手ではない。

それでも、この能には観る者の心を強く打つものがある。

その理由は、言葉にある。

 

物語の大筋を理解さえしていれば、能は舞と音楽と演技だけでも十分に楽しめるが、謡本を手に、言葉を味わいながら舞台を観るのもいいものである。

 

特に素晴らしいと思ったのは、光源氏の降臨を拝もうとする藤原興範が、月に照らされた須磨の浦の海岸で待っているときの描写である。

それはこんな言葉だ。

リズム感がわかるように改行を入れつつ、抜き出してみる。

 

須磨の浦。

野山の月に旅寝して。

野山の月に旅寝して。

心を澄ます磯枕。

波に類へて音楽の

聞ゆる聲ぞありがたき。

聞ゆる聲ぞありがたき。

 

能には反復の言葉が結構多いのだが、「須磨源氏」は特にそれが印象的である。

寄せては返す波のようなリズムがそこにはある。

「旅寝」「磯枕」とは、何と美しい言葉だろう。

これらは、和歌の伝統に由来する、言ってみれば「詩的言語」である。

昔の人は、実際に野宿をしたり、やむなく海岸で眠ることがあったのかもしれないが、おそらくは危険をともなう行為でもあるだろう。

そうではなくて、都会から遠く離れた土地をさすらうときに誰もが感じる情感――一抹の寂しさ、甘い孤独、自然との一体感、人生のはかなさの感覚――を見事に純化して伝えてくれる言葉ではないだろうか。

 

もうひとつ、この部分で心にしみたのは、音楽についての感覚である。

降臨した光源氏が、往時の美しい秋の思い出の舞「青海波」を舞うときに、その音楽は野山の月の光、荒海の波風に混じって彼方から聴こえてくるのである。

何という幻想的な音楽のビジョンだろう。

 

本当の、この世のものならざる音楽というものがあるとすれば、それはコンサートホールや劇場だけでなく、自然界の音の彼方に耳を傾けようとすることによって体験しうるものなのかもしれない。

 

能の視覚的要素は、現代のエンターテインメントと比べると、あまりにも簡素であり、静的である。

うっかりすると、そこに秘められた寓意や象徴、メッセージを見逃してしまいがちである。

かく言う私も、能は全くの専門外であり、わからないことだらけである。

それでも能が素晴らしいと思うのは、この舞台芸術は、受け身で待っているだけでは何も伝えてくれず、フルに能動的に想像力を働かせることによってこそ、驚異的な幻想性やドラマ性を発揮するという点にある。

 

そのカギはたくさんあるが、やはりその核には言葉がある。

第29回写真.JPG

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